【対談】 武内哲志さんにきく

新企画! 「勝手に漱石文学館」では掲載記事の幅を広げるため、「対談記事」の掲載を企画しました。第1回目は「松山坊っちゃん会(漱石研究会)」の会長、武内哲志さんです。 北野:このたびは、「松山坊っちゃん会(漱石研究会)」結成60周年、おめでとうございます。 武内:有り難うございます。人間で言えば還暦にあたり、大きな節目としてこれまでを振り返り、新たな一歩を踏み出すときだと思います。 北野:「松山坊っちゃん会」というのは、漱石の研究会ですが、武内さんが漱石や漱石の作品に興味をもたれたのは、どのようなきっかけですか。 武内:大人が読む本を読み始めた中学生くらいまでさかのぼって考えてみますと、漱石に親しむ以前にたまたま手元にあった子規の俳論「獺祭書屋俳話」歌論「歌よみに与ふる書」随筆「墨汁一滴」「仰臥漫録」「病床一尺」を読み興味を持ちました。同じ頃、子規と親しかった漱石の作品も読み始め、まず「坊っちゃん」を読み、続いて「吾輩は猫である」を寝る前に布団の中で少しずつ読み、面白いので読み通しました。高校の授業で「こころ」「現代日本の開化」「私の個人主義」をよみ、強く印象に残って文庫本を買って通読しました。それから「草枕」「虞美人草」「三四郎」「それから」「門」などにも手を伸ばすようになりました。40歳過ぎたころ松山中学の伝統を受けつぐ松山東高に転勤して、先輩教員で前会長の頼本先生に誘われ、東高が会場になっている坊っちゃん会の会員になり、会のお世話をするようになりました。よく読んでなかった「明暗」…

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【対談】 武内哲志さんにきく――第2回

「勝手に漱石文学館」では掲載記事の幅を広げるため、「対談記事」の掲載を企画し、第1回目となる前回は、「松山坊っちゃん会(漱石研究会)」の会長、武内哲志さんにお話しをうかがいました。今回も引き続き、武内哲志さんの登場です。 北野:前回はありがとうございました。とても好評で、おおぜいの方に対談の記事を読んでいただきました。今年も早いもので師走を迎え、12月9日の漱石忌も過ぎてしまいました。「松山坊っちゃん会」では毎年、どのように漱石忌を過ごしておられるのですか。 武内:坊っちゃん会の冬の例会は、毎年漱石忌のころを予定しているので、子規漱石に縁のある正宗寺の和尚さんに会場に来ていただき、お経をあげてもらい法要を行うことにしています。それは「松山坊っちゃん会」が漱石を大切にしていることのあらわれです。その後予定の講演会などを実施しています。今年は 愛媛大学で開催した「俳人漱石と松山」のシンポジウムに参加させていただきました。 北野:今日はとくに、「松山の漱石」「松山の坊っちゃん」ということで、いろいろお話しをうかがいたいと思います。 まず、どうして漱石が東京における勤めを辞めて、松山中学に赴任することを選択したか、ということです。当時の教員を目指す者にとって、中学に就職できることは幸運だったと思うのですが、漱石は嘱託と言っても東京高等師範で教えていたわけで、高校や大学で教えるならともかく、東京を離れて、地方の中学校に赴任することは、いかに親友正岡子規のふるさとと言っても、かなりの決断だっ…

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【対談】 神楽坂 文悠書店――橘陽司さんにきく

「勝手に漱石文学館」では掲載記事の幅を広げるため、「対談記事」を掲載しています。今回は神楽坂にある文悠書店を営む橘陽司さんの登場です。 北野:いよいよ今年は泉鏡花生誕150年。神楽坂は鏡花にとって、文豪への第一歩を踏み出した、まさに第二のふるさとのようなところですが、神楽坂では、鏡花に関して、何か特別なイベントなどは企画されているのでしょうか。 橘:以前には「おかみさん会」主催の講演会が行われたと聞いていますが、 今年は未定のようです。 北野:神楽坂と言うと、子どもの頃、神楽坂はん子という芸者さんのかっこうした歌手がいて、それで何となく神楽坂という名前が頭の中に入って来て、東京へ行ったら、一度行ってみたいと思っていたところです。子どもですから、別に芸者さんにあこがれたというわけでもないでしょうが、妙に頭に残って……。橘さんから見て、神楽坂とはどんなところですか。 橘:神楽坂は生まれ育ったふるさとで、小学生時代は三味線の音が響く石畳の通学路を毎日通っていました。そんな花街の面影を残す神楽坂も停滞期がしばらく続きましたが、その沈滞ムードを一掃するきっかけが平成19年神楽坂を舞台とするテレビドラマ(ロケ)でした。当時人気絶頂だった嵐・二宮君が主演とあって、一気に来街者が増え観光スポットとしての人気に火が付いた感じです。 「嵐の聖地」、○○の名店などとメディアへの露出が増え、こんなかたちで商店街の救世主が現れるとは思ってもいなかったです。 神楽坂は交通の便が良好で日常の買い物…

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【対談】 荒井麻美さんにきく

「勝手に漱石文学館」では掲載記事の幅を広げるため、「対談記事」を掲載しています。今回は室生犀星が終の棲家を定めた馬込にある大田区立馬込図書館馬込文士村担当の荒井麻美さんの登場です。 北野:本日はよろしくお願いいたします。さっそくですが、犀星が馬込に住むようになったのは、1928年。初め、谷中に住んで、1932年、萬福寺のすぐそばに新居を構え、終の棲家になりました。犀星が住んでいた頃と、現在ではずいぶん変化していると思いますが、一言で言うと、馬込はどんなところですか。私はずいぶん、坂が多い所という印象をもちましたが。 荒井:北野さんの印象通り、馬込はかつて九十九谷と言われ、狭い坂の多い起伏のある土地が特徴です。馬込図書館も急な坂道を上った所に位置しています。 北野:馬込らしいところに図書館があるのですね。ところで、馬込は「馬込文士村」とよばれるくらい、多くの作家たちが住みました。馬込図書館には「馬込文士村資料室」がありますが、何人くらいの文士が紹介されているのですか。 荒井:馬込文士村の文士として資料の収集対象としているのは小説家、詩人、芸術家など計69名です。 北野:69名ですか。すごい数ですね。その中の一人犀星ですが、犀星に関する資料というのは、どういったものが、どのくらいあるのですか。 荒井:馬込文士村資料室では本人の著作の他、作家研究書などを収集しています。犀星関連の著作は約400冊ほどです。近年では文学館で開催される展覧会のパンフレット等も収集対象として…

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