【館長の部屋】 文豪と上野④

藤村は『春』に、本郷台を下る無縁坂からの眺めを、《岸本はある邸の塀について無縁坂を下りた。不忍池が見える。》と描かれている。ある邸とは財閥の岩崎邸である。
同じく『春』では、《公園の木の葉は多く枯れ落ちていた。市川と青木の二人は、東照宮の杜について暗い木立の間を通り抜けた。やがて広い道路へ出た。》《二人はごちゃごちゃ並んで生えている古い常盤木の下に立った。高いところからは暗い葉が垂下っている。その木と木の間を通して、不忍の池が見える。枯々とした蓮の葉の残ったさまも見える。下谷から本郷台へかけて、対岸の町々は夕方の明い色の中にあった》。《月は空にあった。時は夜の十二時に近い。涼しい風の来る不忍の池の畔へ集まった男女も、一人減り、二人減りして、もう人の影が見えない。水に臨む家々でも多く戸を閉めて寝た。弁天の境内から出て来て、蒼白い闇の中を帰って行く人々があった。》と不忍池一帯を描写している。本郷台と上野山に囲まれた、池の立地した地形環境がよくわかる一連の文章である。

広小路とは江戸時代以降に設けられた幅の広い街路で、江戸の街においては、1657年の明暦の大火をきっかけに、火除地として、上野、両国などに設けられた。上野広小路は下谷広小路とも呼ばれてきた。上野広小路は、万世橋(江戸時代の筋違門)から上野山下に至る道で、もともと寛永寺の参道で、将軍が寛永寺に参拝するため「御成道」と呼ばれた。門前町として江戸時代から賑わっていたが、道路が拡幅されてからは、仮設の芝居小屋や屋台も建ち並び、ますます賑わいをみせた。
上野広小路交差点は、御成道を引き継いだ南北に走る中央通りと、明治期の市区改正によって拡幅されてできた、東西に走る春日通りが交差する十字路である。南東角には松坂屋デパートがある。付近一帯は商店や飲食店が建ち並び、鈴本演芸場・上野広小路亭・黒門亭などの寄席もある繁華街で、アメ屋横町(アメ横)も賑わいをみせている。
中央通りを北へむかう一帯が上野山下で、そのまま行けば上野山へ上っていくが、自動車の通る道は右へ除けて、まもなく上野駅前に達する。上野広小路交差点の北西地域に不忍池があり、その南岸一帯は池の端と呼ばれる。
漱石の作品で、『彼岸過迄』には、《広小路に菜飯と田楽を食わせるすみ屋という洒落た家があるとか》、『道草』には、《或日彼はその青年の一人に誘われて、池の端を散歩した帰りに、広小路から切通しへ抜ける道を曲った。彼等が新らしく建てられた見番の前へ来た時、健三は不図思い出したように青年の顔を見た。》と、上野広小路が登場する。春日通りは上野広小路交差点を通って西へ、切通しから本郷四丁目交差点に続いている。文中、広小路から切通しへ抜ける道とは、春日通りのことであろう。

山下雁鍋は上野山下の三橋町にあった。おおむね現在の上野公園交差点あたり(かつての都電上野公園電停付近)である。江戸時代からの名物だった。『吾輩は猫である』には、《ある日の午後、吾輩は例の如く椽側へ出て午睡をして虎になった夢を見ていた。主人に鶏肉を持って来いと云うと、主人がへえと恐る恐る鶏肉を持って出る。迷亭が来たから、迷亭に雁が食いたい、雁鍋へ行って誂らえて来いと云うと、蕪の香の物と、塩煎餅と一所に召し上がりますと雁の味が致しますと例の如く茶羅ッ鉾を云うから、大きな口をあいて、うーと唸って嚇してやったら、迷亭は蒼くなって山下の雁鍋は廃業致しましたが如何取り計いましょうかと云った。それなら牛肉で勘弁するから早く西川へ行ってロースを一斤取って来い、早くせんと貴様から食い殺すぞと云ったら、迷亭は尻を端折って馳け出した》、また『虞美人草』には、《花電車が風を截って来る。生きている証拠を見てこいと、積み込んだ荷を山下雁鍋の辺で卸す。雁鍋はとくの昔に亡くなった。卸された荷物は、自己が亡くならんとしつつある名誉を回復せんと森の方にぞろぞろ行く。》と、二作品に登場している。
中央通りへ動物園通り・不忍池通りが合流する辺りは、不忍池から流れ出る水路(忍川)があり、通りには江戸時代から三つの橋が架けられ、三橋(さんきょう)とよばれたが、1890年、内国勧業博覧会の混雑を予想して一つの橋になった。
上野広小路交差点北西角を少し北へ行った北大門町12~14番地(現在の鈴本演芸場近く)には、「博品館」第二店舗があった。1908年に白煉瓦造り三階建で完成し、150店舗入っていた。新橋の「博品館」二号店である。けれども、『行人』で、二郎の父が《やあ何時の間にか勧工場が活動に変化しているね》と語っているので、1913年頃までには閉館したようだ。あっけないものだ。
不忍池の周囲は池の端とよばれる。池の端の表記には、池ノ端・池之端なども使用される。現在の上野二丁目の池寄りの地区は旧町名池ノ端仲町であり、また現在、池の西側と北側の地区は、池之端一丁目~三丁目になっている。
池ノ端仲町は不忍池の南側に、ほぼ東西にのびる通り沿いの街で、守田宝丹本舗をはじめ、蕎麦の蓮玉庵・池之端藪、鰻の伊豆栄、惣菜の酒悦、櫛の十三屋、小間物の日野屋、江戸指物の京屋、袋物の越川、帯紐の道明など江戸時代からの老舗も多い。神田藪蕎麦・浅草並木藪蕎麦と並ぶ藪御三家の一つ池之端藪蕎麦、古式せいろが有名な蓮玉庵、1653年創業の有職組紐道明、手作りツゲ櫛の十三や、創業は吉宗の時代という鰻割烹伊豆栄など、現在も営業を続けており、江戸情緒を楽しめる。
漱石は『道草』で、健三が養父島田のことを思い出している場面を、《健三は昔この男につれられて、池の端の本屋で法帖を買って貰った事をわれ知らず思い出した。たとい一銭でも二銭でも負けさせなければ物を買った例のないこの人は、その時も僅か五厘の釣銭を取るべく店先へ腰を卸して頑として動かなかった。》と描き、また健三がある日、一人の青年と散歩した思い出を、《或日彼はその青年の一人に誘われて、池の端を散歩した帰りに、広小路から切通しへ抜ける道を曲った。彼等が新らしく建てられた見番の前へ来た時、健三は不図思い出したように青年の顔を見た。》と描いている。
漱石は、池の端を通過地点や散歩コースとしていくつかの作品に登場させている。『野分』では、音楽会の帰り、西洋軒(精養軒)の前で中野と別れた《高柳君は往来の真中へたった一人残された。淋しい世の中を池の端へ下る。その時一人坊っちの周作はこう思った。「恋をする時間があれば、この自分の苦痛をかいて、一篇の創作を天下に伝える事が出来るだろうに」見上げたら西洋軒の二階に奇麗な花瓦斯がついていた。》と描かれている。これは先に精養軒の項でも紹介したが、この情景は不忍池の東側から精養軒を眺めたものである。
『三四郎』では、美禰子と上野へ歩く《三四郎は池の端へ出るまでの路を頗る長く感じた。》という。『それから』では、《平岡も、代助の様に、よく菅沼の家へ遊びに来た。あるときは二人連れ立って、来た事もある。そうして、代助と前後して、三千代と懇意になった。三千代は兄とこの二人に食付いて、時々池の端などを散歩した事がある。四人はこの関係で約二年足らず過ごした。》と語られ、『こころ』で、先生とKは《二人は別に行く所もなかったので、龍岡町から池の端へ出て、上野の公園の中へ入りました》。
『吾輩は猫である』《今度は日記帳を出して下の様な事を書きつけた。寒月と、根津、上野、池の端、神田辺を散歩。池の端の待合の前で芸者が裾模様の春着をきて羽根をついていた。衣装は美しいが顔は頗るまずい。何となくうちの猫に似ていた。(略)宝丹の角を曲ると又一人芸者が来た。是は脊のすらりとした撫肩の恰好よく出来上った女で、着ている薄紫の衣服も素直に着こなされて上品に見えた。(略)所謂源ちゃんなるものの如何なるかを振り向いて見るも面倒になって、懐手のまま御成道へ出た。寒月は何となくそわそわしている如く見えた》。
苦沙弥と寒月は、不忍池の西側から南側へ回り込み、池ノ端仲町を抜けて、中央通り(御成道)へ入り、南下して、上野広小路、万世橋を通り、神田へ向ったのであろう。神田で晩飯を食っている。

犀星の『或る少女の死まで』には、主人公が根津のS酒場から帰宅する友人Sを上野広小路まで送る場面がある。画家として世に出ることをめざしているSと二人で、久しぶりにS酒場へ行くと、鶴のように痩せた女の子は病気で、医者はむずかしいと言っている、とのこと。その帰り道。《二人はいつの間にか池の端へ出た。もう蓮はやぶれ初めて、水分をふくんだ風はすこし寒さをかんじた。広小路で二人は別れた。二、三歩すぎると、Sは思い出したように、つと走って来て、「今夜は握手して別れよう。ね、いいだろう。」「よかろう。」二人は鍵のように握手した》。S酒場から広小路へ行くには、現在の不忍通りのルートを通る。道を多少ジグザグしながら、不忍池の西側を通り、南側へ曲がり込んで、三橋のところで電車が通る広い道(現、中央通り)へ出る。上野広小路はすぐである。 
犀星はまた、『ちゃんちゃんの歌――萩原朔太郎に――』(忘春詩集、1922年)において、《けふ町に出で/君が愛児のため/うつくしきちゃんちゃんを求め購ひぬ》と書き出し、朔太郎の娘のちゃんちゃんを買い、自分の子どものちゃんちゃんも買い、《その包み二つを提げ/上野広小路の雑閙の中を歩めり。人込みのなかに揉まれつつ/君とともに身搾らしく歩みたる時と/既に人の世の父たることを思ひ/ぼんやりとまなこ潤み/いくたび寂しげにその包みを抱き換へしことぞ。》と続けている。
朔太郎の娘は長女葉子(1920~2005年)、犀星の息子は長男豹太郎(1921~1922)。共に父親となった思いが込められている。自分の親が誰であるかはっきりしない犀星にとって、我が子を得たことはこのうえもない喜びと安心であっただろう。しかし、この詩をつくった時、生きていた豹太郎は、この詩集を出版した時、すでに生命尽きていた。二つのちゃんちゃん(ちゃんちゃんこ)は松坂屋で買ったのであろうか。当時、田端に住んでいた犀星。田端から山手線電車で上野へ出て来たと思われる。
1923年、大地震発生!生まれて間もない犀星の長女朝子は御茶ノ水の浜田病院にいる。母子が火に追われながら、病院から湯島を経て、上野広小路から上野公園に避難する様子を犀星は『杏っ子』に克明に描いている。切通坂を下って、池之端の仲通り、そして上野広小路へ出てみると、万世橋の方からも大群が上野公園をめざしており、上野山下辺りでは、火の手に追われて大群衆が浅草あたりから逃げて来る。広小路から上野の段々をのぼるまで、ほとんど一時間近くかかり、やっと避難先に指定されていた上野公園内の美術館に到着した。ちゃんちゃんを買って上野広小路を歩く犀星。続けて襲い来る災難を予測すべきもなかった。
                            (つづく)

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