鏡花がこの白金の地を訪れたのは1915年であろう。鏡花は『夜行巡査』においても、当時の英国公使館近辺を歩きながら、作品の着想を練っているし、深川を丹念に取材しながら『葛飾砂子』の着想を得ている。おそらく鏡花は白金の地を舞台に、何か小説を書きたいとこの地にやって来て、あちらこちら歩き廻りながら取材し、その結果として『白金之絵図』が生まれたと考えられる。
市電は1913年に目黒まで開通しているので、鏡花は市電を白金台町で下り、聖心女学校の「正門」に至り、三光坂上近辺で取材し、その後、何らかのルートを経て、蜀江坂側へ出て、緑青色の鳶の舞う避雷針を戴く聖心本館や、赤煉瓦塀、裏門などを見て、蜀江台にある興禅寺や稲荷社を見て、言い伝えなども聞いたであろう。とくに狐にまつわる話は、鏡花の関心を引いたと思われる。雷神社なども訪れ、三光町から古川へ出て、四ノ橋あたりから市電に乗って帰宅したのではないだろうか。
聖心女学校の「正門」と「裏門」。どうして、「正門」が本館から離れた谷の対岸につくられたのか、そして「裏門」はどこにあったのか。この謎を解くため、聖心女子学院の大山江理子校長先生から情報を得て、先に「勝手に漱石文学館」の「館長の部屋」に「泉鏡花『白金之絵図』――聖心女学校正門の謎」を掲載した。その後、大山先生とのやり取りの中で、明確になってきたことがいくつかある。
まず、「正門」と「裏門」。現在では谷底付近に移設されているが、「正門」が本館から離れた三光坂側に設置されていることは一貫している。問題は「裏門」である。
私が蜀江坂を上り始めると、まず「通用門」と書かれた門があった。門扉は閉められており、現在は使用されていないのか。つぎに坂の中程に門。「聖心女子学院」と表示されて、門扉は開いているが、門の名前は記されていない(写真)。そのかわり、門のむこうに案内板が立てられている。門を入ってすぐのところには、「当学院にご用の方以外ご通行はご遠慮下さい。犬の散歩通り抜け等は固くお断り致します。聖心女子学院」と書いた立て札が。どうもこの学校、鏡花がこの地を訪れた100年以上前から、通り抜けたくなるところのようだ。そして坂上、つまり本館、興禅寺、稲荷社にもっとも近い門。結局、私はこの坂上の門を「裏門」と判断した。
ところが、大山先生は、《裏門から上がる坂道は大変急ですので、車の通行は想定していなかったのではないかと考えます。また、裏門付近は現在も道が広くはなく、車等の通行に適していたかどうか不明です》と記されており、私の判断とズレがある。また私は鏡花が《急な上坂の中途の処、煉瓦塀が火のように赤う見えた。》と描いている文章の中で、「急な上坂の中途」と表現していることを無視していた。これは私が先ほど「中程の門」と記した門にあたり、聖心のホームページには「通用門」と表記されている。
どうやら、現在「裏門」と呼んでいる門が、かつての「通用門」で、現在の「通用門」が、かつての「裏門」にあたる。要は「裏門」と「通用門」の呼称が入れ替わったわけで、現在の「裏門」は蜀江坂の上り口にあり、大山先生が「裏門から上がる坂道は大変急」と話されたのも納得がいく。おそらく現在の「裏門」は、聖心の校舎等建設の工事用につくられ、そのまま「通用門」になったと考えられる。聖心の工事にあわせて校地に沿う新道がつくられ、これが蜀江坂と命名され、坂の途中、本館にもっとも近い所に「裏門」がつくられ、現在ではこの門が「通用門」になり、かつての「通用門」はほとんど使用されない「裏門」になってしまった。鏡花は当時の「裏門」をしっかり認識して、作品を書いたことになる。なお、私が「裏門」と思った門は、大山先生の話しによると、「西門」あるいは「中門」と呼ばれている。
とにかく、門一つでこれだけ文章を書くことができる学校は聖心女子学院以外にないと思われる。そして、100年以上前、鏡花の関心を捉えたのも、この門であった。
つぎに、私が「聖心女学校の正門に至り、三光坂上近辺で取材し、その後、何らかのルートを経て、蜀江坂側へ出て、」と表現した「何らかのルート」である。
大山先生は、《鏡花は東大の医科研と本校の間の境の道を三光坂側から興禅寺・蜀江坂に向かって歩いていたということになるのでしょうか。現在でも裏道で、あまり人通りの多い道ではありません。しかし、江戸時代からの古い境界ではあったと考えられているようです。》と、疑問を投げかけられている。この道。明治末期の地図にもしっかり載せられているし、私はこの道を通って鏡花と逆行するが興禅寺の方から三光坂上にまわった。したがって、鏡花が通ったルートであることに何の疑いももっていなかった。けれども大山先生の疑問に、改めて『白金之絵図』を読んでみる。
聖心女学校の「正門」を過ぎたところにある茶店で、与五郎と茶店の婆さんの会話。与五郎は茶店の婆さんに、《ああ、その森の中は通抜けが出来ますかの。》と尋ねる。婆さん、《これは、余所のお邸様の持地でございまして、》と答える。しばしの会話の後、婆さんから、どこへ行くかと訊かれた与五郎。《大な学校を当にいたした処、唯今立寄って見れば門が違うた。》《それは表門でござった……坂も広い。私が覚えたのは、もそっと道が狭うて、急な上坂の中途の処、煉瓦塀が火のように赤う見えた。片側は一面な野の草で、蒸れの可恐い処でありましたよ。》と答える。婆さんは《それは裏門でございますよ。道理こそ、この森を抜けられまいか、とお尋ねなさった、お目当は違いませぬ。》と言って、向う側へ行くには《森の中から背面の大畠が抜けられますと道は近うございますけれども、空地でもそれが出来ませんので、これから、ずっと煙硝庫の黒塀について、上ったり、下ったり、大廻りをなさらなければなりませぬ。》と説明している。
この説明によると、前方、南の方角、伝染病研究所(現在の東京大学医科学研究所)を越えた、そのむこうにある「煙硝庫」と表されている海軍の白金火薬庫(現在の国立科学博物館附属自然教育園)の方まで回らなければ、興禅寺の方へ行くことができない。つまり、一旦、目黒へ通じる道(現在の目黒通り)まで出て、500m程進んでから右折して火薬庫に沿って、さらに数百m。ほぼ現在の外苑西通りのルートを行って、回り込むかっこうで、西側から興禅寺へ近づく。鏡花は、《火薬庫の暗い森を背中から話すと、邸構えの寂しい町も、桜の落葉に日が燃えて、梅の枝にほんのりと薄綿の霧が薫る……。》と描写している。
与五郎が通った道を鏡花も通ったとすれば、火薬庫の方を回ったことになる。私は先に、鏡花の言う「煙硝庫の黒塀」は海軍火薬庫の境界につくられた塀であろうが、それでは少し遠すぎて実態に合わないので、火薬庫のことを鏡花はかなり気にしていたので、情景描写の道具として使ったと思われ、小説であるから、すべて実態通りでなくても良い、と結論づけたのであるが、大山先生の投げかけから再度検証してみると、鏡花は実際に火薬庫の方を回ったようである。
けれども、医科研と聖心の境界の道は、江戸時代の地図にも、明治末期の地図にも明記されている。鏡花は《森の中から背面の大畠が抜けられますと道は近うございますけれども、空地でもそれが出来ません》と書いているが、どうもこれが境界の道にあたるようで、当時、何らかの事情で通れなくなっていたのではないだろうか。《ずっと煙硝庫の黒塀について、上ったり、下ったり、大廻りをなさらなければなりませぬ。》という一文も、そう思って読むと、地元民の迂回路説明のようである。1kmほど遠回りになるが、鏡花にはそれほど負担でもなかっただろう(と、言いつつ、鏡花はちゃっかり、聖心の校地を通り抜けさせてもらったかもしれない)。
以下の文は「勝手に漱石文学館」の「館長の部屋」に掲載した「泉鏡花『白金之絵図』――聖心女学校正門の謎」を改訂したものである。
『白金之絵図』は1916年1月に発表された泉鏡花の小説である。この作品には「聖心女学校」(現在の聖心女子学院)が実名で登場し、お町という少女は「聖心女学校」の生徒として設定されている。そして、「聖心女学校」に正門(表門)と裏門のあることが、作品を構成する重要な要素になっている。鏡花も、本館最寄りの門が裏門で、遠く離れたところに正門があることを不思議に思ったのだろう。
私は聖心女学校正門の謎を解くため、「地理屋」の習性で、現地を歩いて、地形の状態を確認し、聴き取りをしてみたが、よくわからず、当事者にあたる聖心女子学院に問い合わせた。「聖心女学校」は、1909年に緑青色の鳶の舞う避雷針を戴く本館校舎が完成し、1910年に高等女学校、小学校、幼稚園が開校した。赤煉瓦の本館校舎と正門はヤン・レツルの設計により、本館校舎は関東大震災で焼失したが、正門は現存し東京都文化遺産に指定されている。
私が不思議に思ってきたことの一つが、聖心はどうして起伏の激しい地形の場所を選んで校地にしたのかということである。少なくとも校地の中央を谷が通るような地形は避けるであろう。このような疑問に対して、聖心女子学院の大山江理子校長先生は書面に、《聖心は校風として緑豊かな場を立地に選ぶ考え方があり、姉妹校はどこも坂の上にあります。生徒たちは遅刻しそうな場合に苦労することになります。色々なご縁があって、この白金の地を創立の場と選んだようです》と記されている。
大山先生が、《聖心は校風として緑豊かな場を立地に選ぶ考え方があり》、と言うように、修道女会により設立された聖心が求めるものは、修道院を建てるような人里離れたところ、そして仰ぎ見るような場所。まさに聖心が建てられた場所は、東京にあって、そのイメージにふさわしい場所だったのではないだろうか。
《姉妹校はどこも坂の上にあります》と書かれているように、姉妹校の一つ、不二聖心女子学院(静岡県裾野市桃園)は富士山の裾野にあり、学校への登り口から本館まで標高差70m。広大な校地に修道院もある。《生徒たちは遅刻しそうな場合に苦労することになります》という一文に、私は金沢にある県立金沢桜丘高校の「遅刻坂」を思い出してしまった。本名の「児安坂」はどの程度知られているかわからないが、坂を上れば、確かに「児どもたち」は身体が鍛えられ「安らかに」成長できるかもしれない。
このような聖心が求めたイメージからすれば、正門は確かに本館から谷を越えたところ、つまり三光坂を上ったところにつくるのが望ましい。
大山先生は、《正門がなぜ本館から遠いところに作られたかという記録は見当たりませんが、以下のように理由を考えてみることができます。》として、《昭和10年に正門は現在の坂下の位置に移設されましたが、それまでは目黒通りから通じる道に接しておりました。当時の写真を見ますと、正門から森を経た向こうに本館がまっすぐ見えるように配されております。正門から入ると道は下り坂となり、その道の両側には池があったという記録もあります。本館は坂を上がった上にあります。当時の本館の写真を見ますと、明治の建築にあるような玄関に接する立派な車寄せが作られておりますので、馬車や人力車、車等の通行を想定したと思われます。正門から本館までは立派な車道が作られていたものと思われます。目黒通り、あるいは三光坂からの通行を想定したものでしょう。裏門から上がる坂道は大変急ですので、車の通行は想定していなかったのではないかと考えます。また、裏門付近は現在も道が広くはなく、車等の通行に適していたかどうか不明ですし、雷神山公園に向かって旧神応小付近は低い土地となっていますので、高い方を正門としたとも考えられます。》と記されている。
正門は、1935年、現在地に移されるまで、《目黒通りから通じる道に接して》、つまり三光坂を上った、現在の白金4丁目10、白金マンション南、「聖心女子学院」の銘板の入った石柱が建っているあたりにあった。
本館から谷を越えた反対側の丘の上に正門を置くことによって、《正門から森を経た向こうに本館がまっすぐ見えるように配されております。》という理想の構図を得ることができる。建物だけでなく、景観を大切にする永井荷風が知れば、おおいに喜ぶだろう。
正門を抜けて坂道を下ると谷である。聖心本館が建てられる二年前の1907年1月調査の『東京市芝区全図』によると、谷底を南から北にむかって川が流れ、上流部と下流部に池が見られる。
1907年1月調査の『東京市芝区全図』は重要なことを教えてくれる。それは聖心を建設する時、蜀江坂がなかったことである。当時あったのは、雷神社近くを通る雷神坂だけで、興禅寺まで通じていた。迂回する形になるので、傾斜はいくぶん緩やかになるが、道幅は狭かった(雷神坂は分断され、現存しない)。けれども、鏡花がこの地を訪れた時、蜀江坂があり、坂に沿って聖心の煉瓦塀があったことは、《急な上坂の中途の処、煉瓦塀が火のように赤う見えた。》という文章からもわかる。つまり、聖心の校地を区切る煉瓦塀建設が蜀江坂を生み出したのである。おそらく、蜀江坂上り口にある通用門は建築資材運搬などのため設けられたものであろう。大山先生は、《裏門から上がる坂道は大変急ですので、車の通行は想定していなかったのではないかと考えます。また、裏門付近は現在も道が広くはなく、車等の通行に適していたかどうか不明です》と記されている。
蜀江坂が急坂であったことは鏡花も描いている。これは、自動車時代に至る以前の、人力車の時代には大きな障害になる。
ここで、島崎藤村の『春』の一節をみてみよう。藤村が尊敬する北村透谷の葬儀(1894年)の様子をもとにしている。芝公園辺りの自宅でキリスト教式葬儀をした後、白金の寺まで行く場面である。赤羽橋から慶應義塾大学を過ぎて、角で右折。《豊岡町、松坂町の裏通は、やがて白金へ通う樹木の多い道路である。これはやや迂回した道順ではあったが、一番上り下りが少く白金台のほうへ行くことができたからで。》と、女性は多くが人力車を利用しているから、なるべく傾斜の少ない経路を選ぶ必要がある。一行は立行寺の前から清正公像のある覚林寺の前に出る。どっちにしても最後は上らなければならない。《三光町から坂にかかるころ、婦人や子供を乗せた車の列がときどき止った。若い人々が翳す美しい洋傘は、車が動くたびに、路傍の青葉に触れた。これが上りきるまで、待っているのは容易でない、こう思って、後から行った連中は白金のほうへその坂を急ごうとした》。現実にむかう瑞聖寺は、聖心の正門側から目黒通りへ出て、地下鉄白金台駅すぐ南である。
白金台へ上るには、谷筋を通る目黒通りのルートが、比較的傾斜が緩やかで、道幅も広く、急な蜀江坂や三光坂、狭い雷神坂にくらべ、人力車のルートとして選びやすかったと考えられる。この点からも、正門の位置は表としてふさわしいものであっただろう。
《当時の本館の写真を見ますと、明治の建築にあるような玄関に接する立派な車寄せが作られておりますので、馬車や人力車、車等の通行を想定したと思われます。》と大山先生は書かれている。一般的に公開された写真から、車寄を見ることはできず、貴重な情報である。西洋建築では当然のこととして作られ、実際どの程度使われたかわからないが、馬車や自動車を利用した場合には使われただろう。ただ、人力車の場合、坂の上り下りは極力避けたいので、正門のところで下りて、300m余の坂道を歩いて本館へ向かったのではないだろうか。正門が坂下につくられなかったことも頷ける。
聖心が創立されて5年程。1913年に現在の目黒通りにあたる道路に東京市電が走り始めた(目黒線)。白金台町の停留所も設けられ、聖心正門まで300m余、高低差も少ない。鏡花が訪れた時、すでに市電は目黒駅まで開通していたから、このルートで聖心の正門にたどり着いたと考えられる。
このように見てくると、一見不自然な正門の位置も、聖心の描く理想の校地、景観と、現実の交通の便、両面から、きわめて合理的な正しい選択であったと言えるだろう。鏡花の世界に引き込まれて、裏門を正門にしなかった精神的要因を探ってしまったが、どうもそうではなかったようだ。信州旅行(1913年)をもとにした『革鞄の怪』や『魔法壜』などのように、現実をしっかり踏まえて異界へ引きずり込んでいく鏡花の手法が『白金之絵図』にも表れている。
(完)
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