『草枕』の主人公は疑いもなく余です。余は「非人情」の旅に出たわけですが、もともと画家ですから、その旅の途中で出会った那美という女性を描いてみたくなってしまいます。那美という女性は、始めから余の絵のモデルとして設定された人物です。『草枕』には多くの興味あることが書かれていて、知的好奇心を掻き立てますが、話しの流れからみれば、余の頭の中で、那美の絵が少しずつできていって、最後に完成するという仕組みです。那美を語ることは、ある面、『草枕』のすべてを語ることにつながるかもしれません。各論部分に入った最初は、この那美について、五つの視点からお話ししたいと思います。
第一の視点、「第三者から見た那美」です。
余に初めて那美の情報を伝えたのは、那古井へ向かう途中に立ち寄った茶店の婆さんと、そこへやって来た馬子の源兵衛です。もちろん、まだ那美という名は出てきません。
二人によってもたらされた情報をまとめると、――
那美は5年前、桜の花がほろほろ散る頃、源兵衛の牽く馬に乗って、振袖に高島田で山を越えて、城下で随一の物持ちへ嫁いで行った。相手は器量の良さを気に入ったものだが、那美にしてみれば、京都に修業に出ていた時、好きになった男性との結婚が叶わず、嫌々嫁いで行く身。結局、結婚生活はうまくいかなくなり、今度の戦争で夫の勤めている銀行がつぶれたのをきっかけに、離婚し実家へ戻った。もともと内気で優しい方だったが、この頃は大分、気が荒くなっている。二人の男が祟ったのは、淵川へ身を投げて亡くなった長良の乙女の身の上によく似ている。――おおよそ、このようになります。
つぎに、志保田の宿の小女。小女郎とか下女とか書かれることもありますが、今流に言えば旅館の女性従業員。余は那美に関心をもったため、かなり執拗に質問しています。そこで、――
那美はこの宿の若奥様で、父親もここに住んでおり、母親は去年亡くなった。那美は毎日針仕事をしている他、三味線をやり、お寺の大徹という和尚のところにも行く。――おおよそ、このようなことがわかり、余が今いる部屋は普段那美が使っている部屋であることも知らされます。
続いて、江戸っ子という床屋の主人。余が志保田の宿に泊まっていることを告げ、「奇麗な御嬢さんが居るじゃないか」と言うと、「あぶねえね」と主人。その話をまとめると、――
那美は出戻りで、本来なら出て来るようなことでもないが、銀行が潰れて贅沢ができないと言って出て来た。本家の兄とは仲が悪い。顔は良いが「き印」。村の者はみんな「気狂い」と言っている。その証拠に、観海寺の泰安という下級の僧侶が那美に惚れて手紙を送ったら、那美が寺へやって来て、本堂でお経を上げている泰安の首っ玉へかじりついて、「一所に寐よう」と言ったことがある。恥をかかされた泰安はその晩、こっそり姿を隠して死んでしまった。村中、大笑い。
――このような女だから、余にも「気をつけろ」と、床屋の主人。
ところが、床屋の主人の話しは今一不確か。「色の出来そうな坊主だったが、そいつが御前さん、レコに参っちまって、とうとう文をつけたんだ。――おや待てよ。口説たんだったけかな。いんにゃ文だ。文に違えねえ。すると――こうっと――何だか、行きさつが少し変だぜ。うん、そうか、矢っ張りそうか。するてえと奴さん、驚ろいちまってからに…」という状態で、泰安が死んだと言っておきながら、余が「死んだ?」と問い直すと、「死んだろうと思うのさ。生きちゃいられめえ」「そうさ、相手が気狂じゃ、死んだって冴えねえから、ことによると生きてるかも知れねえね」と、憶測でモノを言っていることがバレてきます。なお、ここで「レコ」というのは、「コレ」をひっくり返したもので、「話しの種」を「ネタ」というのと同じ発想です。
そこへ、観海寺の小坊主了念が登場。「泰安さんは死にはせんがな」「泰安さんは、その後発憤して、陸前の大梅寺へ行って、修行三昧じゃ。今に智識になられよう。結構な事よ」と語り、床屋の主人が「あの狂印は矢っ張り和尚さんの所へ行くかい」と訊くと、「狂印と云う女は聞いた事がない」「狂印は来んが、志保田の娘さんなら来る」「あの娘さんはえらい女だ。老師がよう褒めておられる」と、真逆の情報がもたらされます。
志保田の隠居の所へやって来た観海寺の和尚は、那美について、なかなか足が強いと述べた後で、姿見橋の所で会って、どこへ行って来たと訊くと、芹摘みに行った帰りで、「和尚さん少しやろうか」と言って、和尚の袂へ泥だらけの芹を押し込んできたというエピソードを語る。和尚自身の体験であり、那美の父親にむかって言っていることで、この出来事は事実とみて良いでしょう。父親は恐縮している様子です。
那美に関して、もうひとつ。観海寺へむかう途中の鏡ケ池の畔で、余が馬子の源兵衛に会った場面。馬子が昔、志保田のお嬢様が梵論字、つまり虚無僧に惚れて、結婚が叶わず、この池に身を投げたと話し、「これはここ限りの話だが」「あの志保田の家には、代々気狂が出来ます」「全く祟りで御座んす。今の嬢様も、近頃は少し変だ云うて、皆が囃します」「御座んせんかな。然しあの御袋様が矢張り少し変でな」と続けています。
このように見て来ると、第三者の中でも、馬子の源兵衛や床屋の主人は那美を「気狂い」と捉えている、おそらく多くの村人も同様でしょう。それに対して、和尚も了念も「気狂い」と捉えていません。
つまり、石段を登ったところにあるお寺の人びとと、「世間」の人びととでは、那美という同じ人物に対する評価がまったく違います。この違いを漱石は、「石段をあがると、何でも逆様だから叶わねえ。和尚さんが、何て云ったって、気狂は気狂だろう」と言う床屋の主人の言葉で表現しています。
余はまさにその狭間で両方の評価を聞かされるわけですが、漱石はどちらか一方に軍配を上げる素振りはみせません。床屋の主人と了念はまったく反対のことを言っているようにみえますが、泰安が那美に惚れて、そのことがきっかけで観海寺を出て行ったこと、それから、和尚が語った芹の話しも事実のようです。
第二の視点です。
余は実際に接するようになって、那美をどのように捉えるようになったのでしょうか。
余が直接那美に会った初回は、志保田の宿に一泊した翌朝の風呂場。余が湯から出ると、いきなり声をかけられ、背中から丹前をかけられる場面です。
その後、一対一の会話の場面が三回。第一回目は風呂場の一件があった後、那美がお菓子を持って来た場面。第二回目は、余が書物を読んでいた時。余はすでに、床屋の主人、志保田の隠居や観海寺の大徹和尚、久一などにも会っています。第三回目は那美が元夫にカネを渡した後の場面です。
最終の第13章。出征する久一を駅まで送る場面では、余と那美の会話だけでなく、隠居、那美の兄、久一の会話が入り交じっています。
この他、一対一は、那美が振袖姿で現れる場面、余が入っている風呂場へ那美が素裸でやって来る場面に描かれていますが、会話はありません。
第一回目の場面で、那美本人の口から、次のような情報が得られます。那美は田舎言葉を使っていません。――那美は渡り者で、東京にも京都にもいた。父、つまり隠居は骨董が大好きで、他人に見せるのが大好きで、褒めてやれば嬉しがる。茶店の婆さんはもと志保田の奉公人で、長良の乙女の歌は那美が婆さんに教えた。――
こうした情報以外に、所作や話しの内容、対応などから、那美という女性の一端が垣間見られます。
那美は余が部屋で寝転がっている所へ入って来て、「寝てなさい。寝ていても話しはできる」と気作に言い、「退屈だろうとお茶を入れに来た」と、お茶とお菓子を持って来ます。那美は気づかいのできる女性であることがわかります。
ところが、余が青磁の菓子皿を羊羹に対して遜色ないと褒めると、ふふんと笑って口元に侮どりの波が微かに揺れる。余が「こう云う静かな所が却って気楽でしょう」と言うと、「世の中、気の持ちよう一つでどうでもなる。蚤の国が厭になったって、蚊の国へ引っ越しちゃ何もならない」と漱石が乗り移ったように切り返し、余が「蚤も蚊もいない国へ行ったら良い」と言うと、「そんな国があったら、ここへ出しなさい」と詰め寄り、余が写生帖に絵を描いて、「ここへ入りなさい。蚤も蚊もいない」と言うと、「窮屈な世界。そんな所が好きなら、まるで蟹」と切り返す。思わず余は大笑いで、「女のくせに」と反感をもつどころか、すっかり会話を楽しんでいる様子です。
話題は長良の乙女に移って、余が長良の乙女の歌を「憐れ」と評すると、那美は「憐れでしょうか。私ならあんな歌は」詠みませんと言い、「第一、淵川へ身を投げるなんて」つまらない。私なら両方とも男妾にすると言う。そして、那美は余の「成程それじゃ蚊の国へも、蚤の国へも、飛び込まずに済む訳だ」という言葉を受けて、「蟹の様な思いをしなくっても、生きていられるでしょう」と応じています。ここで、先ほど鳴きそこなった鶯が「ほーう、ほけきょーう。ほーー、ほけっーきょうー」と鳴き、那美は「あれが本当の歌です」と余に教えます。
那美を長良の乙女と重ね合わせて、「感傷的な女性」というイメージをつくり上げているとすれば、それは見事に崩されていく。那美はきわめてドライで、「憐れ」を感じさせない女性です。先入観で人間をみることの危険性を知らされる思いです。長良の乙女は「人情」の世界に生きていても、那美は「非人情」の世界に生きている。なるほど、どこかへ引っ越さなくても大丈夫そうです。
第二回目の場面では、那美について新しい情報は書かれていませんが、「小説」「非人情」などについて語られ、『草枕』の山場と言えそうです。
余が本を読んでいると、那美が入って来て、「西洋の本ですか、むずかしい事が書いてあるでしょうね」と語りかけ、「何が書いてあるか自分でもよくわからない、開いた所をいい加減に読んでいる」という余に、「それで面白いんですか」。「小説なんか、そうして読む方が面白いです」と言う余に、「余っ程変って入らっしゃる」。余は「初めから読むと仕舞まで読まなければならない」と言って、「あなたは小説が好きですか」と切り返す。那美はあいまいな返事で、小説なんて読んでも読まなくても良いという態度。それじゃ、「いい加減な所をいい加減に読んだって、いい訳じゃありませんか」と開き直ると、「あなたと私とは違います」と、反論してくる。余は「若いうちは小説もずいぶん読んだんでしょう」と持ち掛けると、「今でも若い積りですよ」。「そんな事が男の前で云えれば、もう年寄のうちですよ」と言えば、「そう云うあなたも随分の御年じゃあ、ありませんか」と切り返すだけでなく、「そんなに年をとっても、矢っ張り、惚れたの、腫れたの、にきびが出来たのってえ事が面白いんですか」「ええ、面白いんです。死ぬまで面白いんです」「それだから画工なんぞになれるんですね」と。
さらに那美は、余が読んでいる本を読んでくれと言う。「英語で書かれているから」と言うと、「日本語に訳して読め」「いいじゃありませんか、非人情で」と迫る。途中で、「ドージとは何です」「女が云うんですか、男が云うんですか」「女は?」など質問してくる。時には、「読みにくければ、御略しなさい」「動詞なんぞ入るものですか、それで沢山です」。
これはもう落語の台本。子どもの頃から聞いて来た江戸落語が漱石の中にしっかり根付いている感じです。こうした会話の面白さが、『草枕』の、さらには漱石の小説の魅力になっています。読者は、あれこれ詮索せずに、会話の面白さを楽しめば良いのです。漱石の小説には、高等下宿、高等遊民、ついに高等淫売まで登場しますが、余と那美の会話などは「高等落語」と呼ぶことができそうです。
第三回目の場面でも、「何をそんな所でして入らっしゃる」「詩を作って寐ていました」「うそを仰しゃい。今のを御覧でしょう」と、那美は余の行動をお見通しで、「少々拝見しました」と言う余に、「沢山御覧なさればいいのに」と言い返す。
余が今会っていた男はどこへ行くのか訊ねたのに対し、那美は「満洲へ行くそうです」「御金を拾いに行くんだか、死にに行くんだか、分かりません」と答えています。この場面でも、「高等落語」が続いています。
第三の視点です。
以上、第三者から見た那美と、余が直に接した那美と、両方について述べてきたわけですが、果たして、那美とはどのような女性なのでしょう。
那美は、床屋の主人、馬子の源兵衛をはじめ、村の人たちから「気狂い」と見られています。けれども、余と那美が対話する二つの場面から、那美の異常性は見えてきません。とは言っても、漱石が那美を「気狂い」と噂される人物に設定したのですから、何かあるはずです。
ところが『草枕』を読み返してみて、私が、那美の異常な行動としてあげることができるのは、和尚の袂へ泥だらけの芹を押し込んだこと、男性が入っている風呂場へいきなりやって来たこと、夜中に振袖姿を見せたこと程度です。
また、余が青磁の菓子皿を褒めた場面で、《女はふふふと笑った。口元に侮どりの波が微かに揺れた》、蚤も蚊も居ない国に触れた場面で、《女は詰め寄せる》、「竹影払階塵不動」と口のうちで静かに読み了って、《「何ですって」と、わざと大きな声で聞いた》などの描写から、相手の内心を読み取る能力の高さや、急に態度が荒っぽくなる不安定さが気になります。
漱石自身、那美を「気狂い」とも、違うとも結論づけていません。実は漱石にとって、そのようなことはどうでも良くて、このような那美という女性を「非人情」を切り口に、どう描くかが重要なのです。
漱石は第12章で、《あの女の所作を芝居と見なければ、薄気味がわるくて一日も居たたまれん。義理とか人情とかと云う、尋常の道具立を背景にして、普通の小説家の様な観察点からあの女を研究したら、刺激が強過ぎて、すぐいやになる。現実世界に在って、余とあの女の間に纏綿した一種の関係が成り立ったとするならば、余の苦痛は恐らく言語に絶するだろう》と書いています。この部分では余を飛び越えて、漱石が直接顔を出しています。これはまずいと思ったのか、漱石はすぐさま《余のこの度の旅行は俗情を離れて、あくまで画工になり切るのが主意であるから、眼に入るものは悉く画として見なければならん。能、芝居、若しくは詩中の人物としてのみ観察しなければならん。この覚悟の眼鏡から、あの女を覗いて見ると、あの女は、今まで見た女のうちで尤もうつくしい所作をする。自分でうつくしい芸をして見せると云う気がないだけに役者の所作よりも猶うつくしい》と建て直します。
那美という女性に惚れて、結婚したいと思うなら、那美が「気狂い」であるか、ないかは重要かもしれません。けれども、『草枕』という小説には「非人情」というルールがあるのですから、ただ、ありのままの那美の行動を見ていけば良いのです。「果たして、那美とはどのような女性なのでしょう」というような問いそのものが、『草枕』ではルール違反になります。どうも、普通に『草枕』を読んでいくと、相当たくさんのイエローカードをもらって、退場を余儀なくされそうです。
第四の視点です。
この話しの冒頭に申し上げたように、『草枕』という小説は、話しの流れからみれば、余の頭の中で、那美の絵が少しずつできていって、最後に完成するというものです。つまり、『草枕』は有名な《山路を登りながら、こう考えた》で始まりますが、《余が胸中の画面はこの咄嗟の際に成就したのである》という一文で終わるのです。第四の視点は、余の頭の中で、那美の絵がどのように出来上がっていったかです。
余が那美の絵を描きたくなってしまったきっかけは、第2章。茶店の婆さんと馬子の源兵衛が、後に那美とわかる那古井の嬢さまの嫁入りの様子を語る場面です。
茶店の婆さんが「あい、その桜の下で嬢様の馬がとまったとき、桜の花がほろほろと落ちて、折角の島田に斑が出来ました」と語るのを聞いていた余は、《この景色は画にもなる。詩にもなる。心のうちに花嫁の姿を浮べて、当時の様を想像して》、一句出来たものの、絵の方は、《不思議な事には衣装も髪も馬も桜もはっきりと目に映じたが、花嫁の顔だけは、どうしても思いつけなかった》というのです。観光地などによくある、顔だけ空いていて、そこへ観光客がやって来て、つぎつぎに顔をあてがって写真を撮る。あの装置を思い浮かべれば理解しやすいと思いますが、《しばらくあの顔か、この顔か、と思案しているうちに、ミレーのかいた、オフェリヤの面影が忽然と出て来て、高島田の下へすぽりとはまった》のですが、どうもしっくりしなくて、取り消してしまいます。
オフェリヤというのは、シェイクスピアの戯曲『ハムレット』に登場するハムレットの婚約者で、失意のうちに川の水に果てた悲劇の女性です。
茶店の婆さんの顔は、宝生の舞台の高砂に出て来る婆さんとそっくりで、美しく、じつにしっくりいったのですが、花嫁の顔は浮かばないまま、話しは、第10章、鏡が池の場面まで飛びます。
余は、鏡が池に落ちる真っ赤な椿の花を眺めながら、《こんな所へ美しい女の浮いている所をかいたら、どうだろうと》、ふと想像してみます。これは、川の水に浮んだオフェリヤの姿を描いたミレーの絵、いわゆる「水死美人」からの連想です。この絵はすでに第2章で出て来ているのですが、その時はオフェリヤの顔だけ浮かんで、さすがに西洋人の顔では高島田の下にはめても、しっくりいかなかったでしょう。
それが今度は、オフェリヤの顔ではなく、水に浮かんでいる姿の方が出て来たのですが、川ではなく池、色とりどりの花ではなく真っ赤な椿というように、設定はミレーの絵とは異なっています。そのため、余はあれこれ顔を当てはめた結果、那美の顔が一番似合うようだという結論に達します。
達したものの、那美の顔では何か物足りない。何が足りないのだろうかと、余は考えます。「嫉妬」を加えれば「不安の感が多過ぎる」。「憎悪」は「烈し過ぎる」。「怒り」は「調和を破る」。「恨み」では「只の恨みでは俗」になる。多くある情緒を考えた挙句、「憐れ」を忘れていたことに気がついた余は、那美の表情に「憐れ」の念が少しも表れない、そこが物足りなさの原因であると結論づけます。もともと、長良の乙女に対しても「憐れ」を感じない人ですから、他人を「憐れ」に思う感情を持ち合わせていないのかもしれません。けれども、ひょっとして持ち合わせているけれど、表す機会がないだけかもしれません。
《ある咄嗟の衝動で、この情があの女の眉宇にひらめいた瞬時に、わが画は成就するであろう。然し――何時それが見られるか解らない》と多少の期待はもっているものの、《あの女の顔に普段充満しているものは、人を馬鹿にする微笑と、勝とう、勝とうと焦る八の字のみである。あれだけでは、とても物にならない》と、余は那美の顔を評価しています。
最終の第13章へ入ると、余は那美の顔に対する評価を、本人に直接ぶつけます。ずいぶん、相手を傷つける行動です。
那美が久一を送る舟の中で、「先生、わたくしの画をかいて下さいな」と頼みます。余は写生帖にさらさらと描く。「こんな一筆がきでは、いけません。もっと私の気象の出る様に、丁寧にかいて下さい」と言う那美に、余は「わたしもかきたいのだが。どうも、あなたの顔はそれだけじゃ画にならない」と答えます。それではどうすれば良いかという那美に、「只少し足りない所がある。それが出ない所をかくと、惜しいですよ」。「持って生れた顔だから仕方ない」と言う那美に、「持って生れた顔は色々になるものです」。「それじゃ、あなたの顔を色々にして見せて頂戴」「これ程毎日色々になってれば沢山だ」と、ここでも掛け合いです。
絵に関する高尚な話しも、結局、ドタバタ喜劇になってしまう。これが『草枕』です。
最後に、那美の表情に「憐れ」が浮かんで、一つ目の花嫁の絵も、二つ目の「水死美人」の絵も、余の頭の中で完成するのです。満洲へ向かう元夫の姿を見つけて、どうして那美が「憐れ」の表情を出したのか、それを考えることは『草枕』を読む上で、ルール違反になります。ただ、那美の表情は芝居ではなく、自然に出たものだと言うことです。
第五の視点です。
これは、必ずしも那美だけに関することではないので、付け足しのようなものかもしれません。
山田洋次監督の「男はつらいよ」シリーズには、毎回寅さんのマドンナ役が登場しますが、漱石の小説にも、『趣味の遺伝』の寂光院の女、『坊っちゃん』のマドンナ、『三四郎』の美禰子、『それから』の美千代など、マドンナ役が登場します。『草枕』の那美もそのような女性のひとりです。那美がいなかったら、『草枕』は面白くないでしょうし、そもそも漱石自身が書く気にならなかったはずです。
漱石だって人間ですから、いくら「非人情」だ何だと言っても、好ましい女性を登場させたり、男と女のきわどい場面の描写や、さらには女性の裸体も描いてみたいでしょう。
『三四郎』には、広田先生が持っている本の中に、裸体のマーメイドの絵の写真が載った本を美禰子が見つけて、三四郎を呼び、さらには与次郎もやって来て、若い三人がワイワイしながら見ている場面があります。女性の裸体を見る場面に女性が入っているところに、明治とは思えない漱石の斬新さがあります。このマーメイドの絵はウォーターハウスというイギリスの画家が描いたものです。ウォーターハウスには「シャーロットの女」という代表作があり、「オフェリヤ」を描いたミレーとともに、漱石がイギリスに留学していた頃にも、一世を風靡していた画家です。
おそらく漱石も彼らの絵を実際に観たのでしょう。「オフェリヤ」も、裸体のマーメイドも不思議な魅力があって、観る人を虜にしてしまいます。漱石もこれらの絵がぴしゃりと心のカメラへ焼き付いてしまって、どうしても作品の中に登場させたかったのでしょう。じつは私も裸体のマーメイドの絵の実物を観る機会があって、あまりじっと見つめているわけにもいかず、何度も戻って鑑賞。マーメイドは横向きなのに、眼はしっかり私を捉えて放さないのです。あまりにも忘れ難く、後日、もう一度、美術館を訪れ、別れを惜しみつつ、たっぷり鑑賞してきました。所詮、絵画ですから、私も「非人情」にやり過ごすことができますが、「人情」をはさむならば、どうして人魚になってしまったのか、人間の男性を好きになるのかなど訊いてみたくなるでしょう。心の平穏がかき乱されそうです。
話しを『三四郎』に戻します。三人にとって、「あの偉大なる暗闇の広田先生がこんなものを持っていた」、そんな感じで女性の裸体画を観ていたのでしょう。何やら「漱石先生も同じですよ」と、漱石自身言いたそうな一場面です。
とは言っても、もとより漱石は教師ですから、『吾輩は猫である』に出てくるように、吉原へ見学に行っただけでも、姪から追及される立場。漱石の描写はかなり抑制的です。
『三四郎』では汽車の中で出会った見ず知らずの女性が、旅館の一つ部屋に泊まり、女性は三四郎がいることを承知で、風呂へも入ってきます。『行人』では主人公が兄嫁と、これまた旅館の同じ部屋で一夜を過ごします。きっと漱石も、わくわくしながら筆を走らせていたことでしょう。
けれども、『三四郎』でも『行人』でも、お膳立てはできても、何事もなく夜が明け、『三四郎』では、美禰子とのチャンスにも、三四郎は「迷える羊」と言われてしまいます。
『草枕』も同様です。那美の裸体は湯けむりにかすみ、余と那美の最接近もつぎのようになります。地震の場面です。体勢を崩した那美が、《からだを擦寄せる。余の顔と女の顔が触れぬばかりに近付く。細い鼻の穴から出る女の呼吸が余の髭にさわった。「非人情ですよ」と女は忽ち坐住居を正しながら屹と云う。「無論」と言下に余は答えた》と描写されています。余は30歳。那美はバツイチと言っても二十代です。「非人情」で済むはずはないのですが。
ミレーの絵も、ウォーターハウスの絵も、写真かと思われるくらい、写実的で細かいところまで、省略なく描かれています。裸体のマーメイドの絵も、あの鱗の部分はなまめいて、生臭い臭いが漂ってきそうです。長い髪も、とかすのに苦労するくらい、潮風でパサついている様子が伝わってきます。
漱石を魅了したくらいですから、漱石もこのような西洋画をけっしてイヤではなかったでしょうが、あまりにも現実的で余裕がない。余白があったり、ぼかされたりしている東洋の絵画の方が、余裕があって心持ちが良い。男と女のきわどい場面や、女性の裸体も、「西洋的」に、赤裸々に描写するより、「東洋的」に、抑制的に、「非人情」に徹する方が、趣があって良い。それが「漱石流」と言ったところでしょう。
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